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   <title>哲学する臨床心理士(&amp;MBA)</title>
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   <updated>2008-01-16T14:52:44Z</updated>
   <subtitle>「幸せ」とは何かを考えるブログ</subtitle>
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   <title>ガソリンが200円を越えたら</title>
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   <published>2008-01-10T05:16:28Z</published>
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   <summary>先日テレビを見ていたら、北欧のどこかの国ではガソリンが既に１リットル２２０円ぐら...</summary>
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      先日テレビを見ていたら、北欧のどこかの国ではガソリンが既に１リットル２２０円ぐらいだとか。
日本も、ずっと９０円ぐらいだったのが、今や１５０円前後。大変な値上がりといえばいえる。
しかし、本当にこれは大問題なのだろうか？
      中学生の頃、夕刊の新聞配達のアルバイトをしていた。その通り道にガソリンスタンドがあって、いつも値段をみていた。確か、一番高かったときは、１８０円ぐらいだったように記憶している。そう、石油危機のときだ。第２次石油ショックだったと思う。あのときの１８０円と今の１５０円。どう考えてもあのときの１８０円の方が厳しい。経済力だって、あの頃の方が弱かった。それ以後、燃費のよい車が脚光を浴びた。。。。。にもかかわらず、しばらくしたらそれを忘れて、燃費の悪い大型車がはやった。バブルだった。

人は、残念ながら自分の財布事情でしか節制ができない。そして、記憶は長続きしない。

アメリカはもっとひどい。以前、日本よりも遥かに安いガソリン税を５セント値上げすることができないということを聞いたことがある。なぜなら、それで生活が立ち行かなくなる人がいるからだという。しかし、今回のガソリン値上げは５セントどころの話ではない。要するに値上げすればできたはずだ。こうなると、アメリカ人までプリウスを買う。結局自分の財布次第なのだろう。

環境のためには、エネルギーは高い方がよい。

しかし、次の問題は、財布事情がものをいうとしたら、国民が平均的な経済力なら、若干の値上げでかなりのエネルギーの消費抑制が図れるはずだ。しかし、世の中は二極化に向かっている。
金持ちにとっては、エネルギー代なんか対した問題ではないから、節約のモチベーションはわかない。
生活に困窮する人たちは、エネルギーを節約するための投資が困難だ。
こうなると、エネルギーを節約するのは非常に困難な社会構造になる。
アメリカがまさにそうなのだろう。大金持ちはダックスフンドのようなリムジンに乗り、自家用ジェットに乗り、石油を大量消費し、かたや既に国民の何割かを占める低所得者層は、酷暑の中クーラーの電気代を節約して熱死したりする。

節度のある世の中になることはあるのだろうか。

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   <title>管理責任</title>
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   <published>2007-09-29T11:18:05Z</published>
   <updated>2007-09-30T07:15:36Z</updated>
   
   <summary>世の中全般に「管理責任」を非常に強く求める社会になっているような感じがする。 い...</summary>
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      世の中全般に「管理責任」を非常に強く求める社会になっているような感じがする。

いまから10年以上前のことだが、私の母校（私立高校）のサイクリング同好会が事実上お取り潰しになった。現役とOBを集めて顧問はいった。「お前たちは生きていても社会の迷惑になるだけで何の価値もないが、死ぬと億単位の価値が生まれるんだ。昔の親は本人がやりたくてやったことだからと（事故死しても）許してくれたが、今の親は許してくれない。億単位の賠償金を払ったら学校が潰れてしまうんだ」と。さびしいことだが、同意せざるを得ないことだった。


      新弟子を見殺しというか殺してしまった何とか親方の「管理」は言語道断だが、私の高校の時のサイクリング同好会の顧問の「管理」でも、死のリスクは常にあった。血気盛んな高校生が自転車で山登りをする。登るだけならよいが登れば下りがある。もともとスピードが出る設計になっているので、ダウンヒルだと６０Km/hぐらいは軽く出る。血気盛んな高校生がコーナーごとに安全な速度に減速するはずもない。よほど車が好きなのか私の目の前で車に飛び込んで行った友人もいたし、自転車と魔法使いのほうきを間違えたのか自転車にまたいだまま崖から飛び降りた男もいた。
私の個人的感覚からすると、高校生男子に「安全」ばかりを求めるのは、角をためて牛を殺す結果になるのではないかと思う。まあ、飛びこまれた車はいい迷惑だが・・・。

幸いにしてサイクリング同好会からは死者は出なかったが、もし死者が出たら、顧問は何とか親方と同じなのだろうか？

保育園の先生から、子どもがほかの子どもとやりあってちょっと傷を作ったのを怒鳴り込んできて、今後子どもをしっかり管理してそういうことを起こさないように念書を書くように迫った親がいると聞いた。いったい、どうしたら、2歳児・3歳児がたくさんいる中で、やりあったりすることがないようにできるのだろうか？
子ども一人ひとりを檻にでも入れようか？檻が聞こえが悪ければ「個室」だ。
そして、そういう管理ができるとして、それは望ましいことなのだろうか？

「自殺しない教育を」のところでも書いたが、現実の世の中、特に子供の世界は＜いい・悪い＞は別にして、現実的に物の取り合いやらなんやらで年中小競り合いが起こっている世界だ。その中で、いきなり実力行使をするのではなくて、話をしようね、ということを学んでいく過程でもある。その過程の中に、小競り合いもできないようなあまりにしっかりした管理があると、そんなことを学ぶチャンスがなくなってしまう。

生きることには必然的にリスクが伴う。それは怖いことだ。しかし、リスクを減らそうと血眼になって、必然的に存在するレベルのリスクにまで手をつけると、まわりまわって反撃が来るように思う。たとえば、清潔な暮らしはよいことなのだろうが、あまりに清潔な生活の結果としてバイ菌などに免疫系が働く余地がなくなり、免疫系が本来排除する必要なのないものを排除するような暴走＜アレルギー反応＞が増えてきたのと同じような顛末にならなければよいな、と思う。

生きる上である程度のリスクを甘受する。難しいことだが、必要なことだと思う。

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   <title>動作法</title>
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   <published>2007-09-29T01:11:53Z</published>
   <updated>2007-09-29T10:54:08Z</updated>
   
   <summary>臨床動作法という心理療法がある。傍目には、整体とあまり区別がつかないのではないか...</summary>
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      臨床動作法という心理療法がある。傍目には、整体とあまり区別がつかないのではないかと思うような「心理療法」で、数少ない日本オリジナルの心理療法だ。

やることと言えば、肩をあげたり、肩をそらしたり・・・体をつかう。体操ではないので、元気にやるわけではないし、ストレッチでもない。副作用（？）として肩こりが治ったりする。

今のところ、私は施行できるほどの技量はなく、たんに興味でたまに習っている程度だ。
何が面白いかというと、体と心のつながりを実感できることだ。
というのは、なぜ肩をあげるなどの体の動きが、「心理療法」になるのかという根本的な点が面白い。

動作法の論理は、簡単に言うと、心の動かし方の様式と、体の動かし方の様式は、その人ごとに一致している。だから、体の動かし方の様式を変えれば、心の動かし方の様式も変わる、と。

そんな馬鹿な、と考えるのは「心理療法」というものをあまり知らない人だろう。
      心理療法は基本的にそういう構図になっている。つまり、現実世界での心の使い方と、カウンセラーとの間での心の使い方は一致している。だから、カウンセラーとの間での心の使い方を変えると、現実世界でのその人の心の使い方も変わる、というのがフロイト以降ずっと利用されてきた心理療法のメカニズムだ。

ただ、それを体の動きと心の動きの一致という点でとらえたところが面白い。

肩を上げる。それだけの動作だが、ちゃんとやろうとすると難しい。
肩は上がるが、腕にも力が入る。腰にも力が入る。etc.etc。それは無駄な努力だ。
肩を上げる筋肉飲みに力を入れれば十分なはずだが、肩だけを上げるのは思いのほか難しい。

これを心理的なメカニズムに置き換えれば、人はかなり無駄な努力、不必要な努力をしているということになる。
そして、無駄な力を入れているから、おこる副作用もある。
本来上げられるはずのいちよりも、低い位置までしか上げられないのだ。
またまた心理的なメカニズムに置き換えれば、無意識の無駄な努力のせいで、本来よりも低いパフォーマンスしか出せないということになる。
また、同じ肩を上げるという動作にも、人によって使う筋肉（つまりアプローチ）がずいぶんちがう。
またまたま心理的なメカニズムに置き換えれば、同じような言動でも、それを実現した心理的なバックグラウンドは人によってかなり違う、ということになる。

そんなところを体感できるのが面白い。

さて、肩を上げていくと、痛みを感じるところが出てくる。
動作法では、「痛みを感じてつきあう」などという。
その痛みをじっくり体験していると、痛みが変化してなくなっていく。これが緊張がなくなるということなのだそうだ。
なくならないのだとすれば、それは痛みに向き合っていないのだ、と動作法の創始者（？）成瀬先生（御歳８０以上とは思えない体の動きに驚嘆！）はおっしゃる。

確かにやってみると、5秒でと先生はのたまうが、私の場合はもう少し時間がかかり10秒強ぐらいだろうか、で痛みが軽減した。こうなると肩はもっと自由に動くようになる。

再度、「心もおなじ」と考えてみる。

たとえば、誰かに痛いことを言われる。
その痛みにつきあう
しばらくすると、感じ方が変わる（心の緊張が軽減する）
心が自由に動くようになる（クリエイティブな解決策が取れるようになる）

ということだ。
そして、しっかり痛み向き合わないと、痛みは取れない＝心は自由にならない。

たしかに、言語による心理療法のプロセスとまったくおんなじだ。
なかなか、痛みに向き合うというのが難しい。


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   <title>自殺しない教育を</title>
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   <published>2007-09-29T01:11:34Z</published>
   <updated>2007-09-29T11:38:04Z</updated>
   
   <summary>いじめなどで子どもが自殺すると、ワイドショーを筆頭とするマスコミは、「学校の管理...</summary>
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      いじめなどで子どもが自殺すると、ワイドショーを筆頭とするマスコミは、「学校の管理はどうなっていたのか」、などと騒ぎ立てる。「いじめはなかったのか？」「学校側の管理に手落ちはなかったのか」等々。


大変残念なことだが、世の中にいじめは存在する。もちろん、いじめが容認されるわけではないが、現実にいじめがあることを前提としない対策は机上の空論だろう。

わけしりのコメンテーターがいう「命の重みを教える教育をしなければならない」

私はこんなのはナンセンスだと思う。

      命の重みを知ったら、自殺を思いとどまるとでも思っているのだろうか。私には、そんなのは、自殺を他人事として考えている人間のたわごとのようにしか思えない。

命を軽く見る傾向があるのは事実だろう。しかし、命の重み（そもそもこれがどういうことなのかよくわからないが）を教えたら、自殺しなくなるというのはあまりに短絡的な考えだ。

自殺をしそうなクライアントさんにカウンセラーがこんなことをしたら、大変なことになる。必要なことは、まずは、死なないことを教える教育だ。

「なぜ死んではいけないか」を教えても、危機状況の時は役に立たない。危機のときにはそんなに思考が適切に働かない。だから、必要なのは、「死ぬべきではない」と問答無用で教えることだ。別にスパルタで教えるということではない。授業の初めに「起立・礼・着席」とするように、体に覚えこませることだ。そしてそのことを守る（自分自身との）契約をすることだ。

そしてその次に必要なのが「どうやって生き延びるかを考える」という方向づけとその智慧だ。

その順番を間違えてはいけない。「いじめに対処するにはこんな方法があるよ、こんなところで相談できるよ」から入ってはだめなのだ。現代の日本は、理性に訴えるのみが正しいことだと錯覚してしまっているように思える（理性を重視する西洋人は、神も信じている）。そうではなくて、「人は死んではいけない」など、最低限教えるべき価値観というものがある。


まあ、もっとも、あまりにも主観的な価値観をTVで吹聴するタレント（？）に人気があったりするのは、その反動だと思うのは、うがちすぎだろうか。

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   <title>「命の値段」を支える仕組み</title>
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   <published>2007-09-09T03:15:47Z</published>
   <updated>2007-09-12T04:55:33Z</updated>
   
   <summary>残念ながら、人の命はお金に置き換えることができる。「人の命に値段は付けられない」...</summary>
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      残念ながら、人の命はお金に置き換えることができる。「人の命に値段は付けられない」という建前とは別に、現実には値段がある。それが市場主義が行きつく先だ（市場原理主義）。

身近なところでは、自分の過失で相手が指を失ったらいくら、足一本ならいくら、死んだらいくらと、相場が決まっている。
高い生命保険に加入して自分の「値段」をあげる人もいる。

そしてまた、そうやってつけた自分の値段と引き換えに命を売り渡す人もいる。会社や家族、場合によってはマイホームを守るために、保険金目当てで自殺してしまう人がいる。発展途上国では、お金に困って臓器を売るのも珍しくない。臓器も命もみんな商品だ。それは個人レベルの涙ぐましくも痛ましい事例だが、国家レベルでも同じことはある。


      「ならずもの国家アメリカ」(Clyde Prestowitz)によれば、アメリカ人が燃費の悪いピックアップトラックから燃費の良い中小型車に乗り換えれば節約できる程度の石油をめぐってイラク戦争が行われたと。もちろんそれだけが理由ではないだろうが、基本的に戦争は国家のエゴと人の命の交換が行われる取引だ。

ところが、直接、お金と命を直接交換する人は少ない。だからわからない。

裁判官は法律に従って死刑判決を出す。紙の上のことだ。それに法律に従っているだけだ。実際に自分の気持ちで、自分に関係ない人を殺すほどの心理的負担はない。
法律を作る人は、社会的な感覚でどの程度のことをしたら死刑とルールを決める。そのとき具体的に死ぬ人を見ているわけではない。だから心理的負担はない。
死刑執行の署名をするのは法務大臣だが、基本的に裁判官が決めたことを執行するだけだし、ペーパーワークだからさほどの心理的負担はないだろう。
死刑執行人は嫌な役だ。でもやはり、法律の枠組みで決められたことをしているだけで、さらに複数の人が同時にスイッチを押すということで実際に誰のボタンが死刑を執行したか分からないようになっている、と聞いたことがある。
やはり心理的負担ができる限り削減されるようにできている。

少しづつ責任を細分しているため、自分が大きな結果を招くことに加担していることに気づかない。というより、気付かない＜ふり＞が可能な仕組みができている。人を一人殺すという大きなことを、何人かの比較的小さな心理的負担で実行できるようになっている。

別に、死刑制度などを批判したいわけではなく、そうした仕組みによって、一人ひとりは全体を見ないでも、結果的に一人の感覚ではできないことが実行できるようになっている。

戦争もまた同じだ。かりに前述書を鵜呑みにすれば、一人ひとりがガソリンが安いからという理由で大きな車を使うことが、人の命を失う戦争につながってしまう。そういったことは実は世の中では珍しくない。

地球環境の悪化も同じだろう。

どうしたら人は自分の行動の遠い結果を、自分のものとして見ることができるようになるのだろう。

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   <title>代理によるお為ごかし症候群?</title>
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   <published>2007-09-06T02:47:28Z</published>
   <updated>2007-09-10T12:35:46Z</updated>
   
   <summary>代理によるミュンヒハウゼン（ミュンセハウゼン）症候群(Munchausen sy...</summary>
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      代理によるミュンヒハウゼン（ミュンセハウゼン）症候群(Munchausen syndrome)という病気がある。

ミュンヒハウゼン症候群とは、自分に周囲の関心を引き寄せるために虚偽の話をしたり、自らの体を傷付けたり、病気を装ったりする症例の事（Wikipedia）である。このミュンヒハウゼン症候群のなかでも、自らの体を傷つけるのではなくて、他人（おもに子どもや親、配偶者など）の体を傷つけることで同じ効果を狙うのが、「代理によるミュンヒハウゼン症候群」と呼ばれている。

こういった事例には私は当たったことはないし、来てほしくもないし、たとえ来てもらっても対応がいだが、似たようなことを感じることはある。「代理によるお為ごかし症候群」である。


      お為ごかし（お為倒し）とは、表面は相手のためになるように見せかけて、実は自分の利益をはかること（広辞苑）。
代理によるお為ごかし症候群は、「第三者のため」に見せかけて、実は自分の利益をはかること、と考える。

具体的には、「子どものために離婚しない」「子どものためには離婚したほうがいい」「子どもの将来のために、一流幼稚園（小学校・中学・高校・大学・企業）にいれるようにしなければと思って必死で頑張っているんです」「ここで親切にしないのが彼のためだと思って」等々。

厄介なのは、これらの主張は社会的には妥当性があることで、確かに見方によっては「子どものために離婚しない」は、社会的に支持される考え方の一つであって、なかなか反論が難しいこと。反論しても水かけ論にしかならない。

そしてもっと厄介なのは、影の＜真の＞目的が「本人にさえも」わからなくなってしまうことだ。
一方の当事者は自分の真の目的地を誤解し、他方の当事者は相手が誤解した目的地を真に受けて＜話し合い＞をして、どこか意味のある着地点に辿りつくはずがない。

相手が語る表面上の目的が正しいものとして議論をしても、すべての議論は無駄になる。
その上、代理によるお為ごかしを神聖なものとしてとらえているので、決して妥協しない。

代理によるミュンヒハウゼン症候群の患者は決して多くないが、代理によるお為ごかし症候群の患者は山のようにいる。

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   <title>医療費削減？</title>
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   <published>2007-08-18T08:15:19Z</published>
   <updated>2007-09-10T02:01:16Z</updated>
   
   <summary>高齢化に伴って医療費が増大しているのが問題らしい。医療費の話はとてもナイーブな話...</summary>
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      高齢化に伴って医療費が増大しているのが問題らしい。医療費の話はとてもナイーブな話だ。

お役所の論理は＜本当のところはよくわからないけど＞、現行のルールだと、医療費が増大して健康保険が破綻するから、制度を守るためには、保険料を増やすか医療費の総額を減らしたいが、保険料を増やすのは社会情勢からみて難しそうだから、医療費の総額を減らしたい、ということではないだろうか。

＜だれもが最高の医療を受けられる世の中＞それが理想だろうか？

費用のことを考えなければ理想だろう。
しかし、100%自費診療ならそんなことはありえない。
それが可能だとしたら、実際に医療を受けた時の支払いが生活を脅かさない範囲に削減される必要がある。つまり、公費負担か健康保険かが、なければ実現しない。

でもそのことで、保険料が所得の50%になったらどうだろう（所得の５０％は個人に課される所得税と住民税を合計した最高税率）。確かにみんながそのぐらい払えば、相当の医療ができるだろう。そういう世の中が住みよく誇りを持てる社会だろうか？

医療費の公費負担は「常に」所得の再分配を行うことになる。つまり払ったほどの医療を受けない人と、払った以上の医療を受ける人が出てきて、通常、富裕層は前者になり、低所得者層は後者になる。あまり、税金などを高くすると、富裕層は「こんな税金の高い国に住めるか！」と捨て台詞をはいて税金の低い国に移ってしまい、結局貧乏人ばかりが国に残ってしまい却って税収が減るから、税率の国際競争上あまり税率を高くすることはできない＜と言われている＞。

はたまた、アメリカのように、「健康保険は入りたい人だけどうぞ（それも米国の誇る選択の自由の精神です！）」。というのがいいのだろうか？
米国のような制度の矛盾は、本当に保険が必要な人は、保険に入れず（所得が低いから目先の必要がない保険に回すよりも今日の食べ物に回ってしまう）、保険料をたっぷり払える資力のある人はそもそも保険に入るメリットがない（保険料＞支払いを受ける金額の期待値、であるから保険会社が成り立つわけであるから、自費で医療費を払える人は保険料を払うよりも自費で払ったほうが統計的には有利である）ことだろう。ビル・ゲーツには１等賞金３億円の宝くじを買うメリットもなければ、自動車保険に入るメリットもないということだ。


      <![CDATA[そもそも、よい医療・高度な医療は受けたい。でも、お金を出すのは嫌、というのが多くの人の本音だろう。これがユーザー側の矛盾。だから、打ち出の小槌＜健康保険＞でどうにかしてほしい。

しかし何でもかんでも健康保険でカバーして、みんなが健康保険で高度な医療を受ければ、医療費の総額は増大する。たとえば紫外線による皮膚の経年劣化（しみ、そばかす等）を改善するフォトフェイシャルという治療があるが、これを保険で支払えば、多くの人が利用するだろう。しかしこれは妥当だろうか。

結局、その増大した医療費総額のつけをだれが払うのか、という問題になる。国民全体で見れば、ただの医療があるわけではないので、どういうルールにするにしろ、いつか誰かが払わねばならない。そうすると、「打ち出の小槌」が思ったよりも重くて、持ちにくいものになってしまう。

どうしてもこういう話は「制度」の問題として考えがちだが、本質的には論点は以下の２点だろうと思う。
<ul>
	<li>どの程度の医療がミニマムスタンダードとして提供されるべきか</li>
	<li>その費用を社会の構成員がどう分担するか</li>
</ul>

なかなか人は、自分のことと、自分には関係ないことを同じようには考えることができない。
自分や家族に「腎移植が必要」という人と、家族は検診と出産の時以外、ほとんど病院に行ったこともない、という人は同じようには考えにくい。年収10億円独身の人と、年収300万円子どもは幼稚園児2人（病気がち）の人は同じようには考えにくい。

どのような制度にしても、立場によって不満が生じるだろうし、いろいろな問題は起こるだろう。しかし医療は生命に、そして何年生きられるかに直結する事柄であるだけに、最低限の納得性が不可欠だ。

多くの日本人はこういうとき、お上に「納得できる制度」を作ってほしいと望むように思う。でも、納得と「魔法」は違う。自分が受け身の状態で「納得できる制度」というのは、実はほとんどの場合「魔法のように問題が解決する制度」である。そんなものは長期的にはありえない。

大人の個人としてまずできることは、自分や家族の健康のために、自分はどの程度のコストをかけてもいいと思うのか、個人的な数字として考えることがスタートラインではないかと思う。]]>
   </content>
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   <title>レシピが同じなら、できるものも同じ</title>
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   <published>2007-07-13T09:01:13Z</published>
   <updated>2007-07-13T09:28:48Z</updated>
   
   <summary>グッドウィルやフルキャストなどの人材派遣業者が、事実上日雇いのアルバイターたちか...</summary>
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      <name>Admin</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.enishi.org/">
      グッドウィルやフルキャストなどの人材派遣業者が、事実上日雇いのアルバイターたちからシステム登録費とかいう名目で強制的に天引きをしていた、という問題をテレビで見ました。

「規制緩和」・・・小泉さん以来、錦の御旗になった感がある言葉です。たしかに規制緩和によってよくなった面はたくさんあります。

まず何がって、昔は電話とコンピュータをつなぐことすら禁止されていたのです！いまや、電話経由でインターネットに接続する人は少ないと思いますが、ADSLだって、使っているのは電話回線です。携帯は電話＆コンピュータ端末です。


      一方で人材派遣も自由化されました。おかげで日雇い労働者のピンはねが合法化されたわけです。それでも、働きたい人に仕事を斡旋してその人が働けるようになること自体は、よいことでしょう。

持ち株会社も合法化されました。戦争につながる帝国主義的な制度として廃止されたものです。M&amp;Aの規制も大幅に緩和されました。おかげで、会社が一つの商品として簡単に売買できるようになりました。これもまた、民間の活力増大のためによいことでしょう。

労働法関連もずいぶん規制が緩和されました。
裁量労働制や年俸制は、能力のある人にとってはよい制度でしょう。
夜間労働の規制緩和などは、どうしてもその仕事をしたい人にはよい規制緩和でしょう。


しかし、それらの結果トータルとして何が起こるのか。
一つ一つの制度変革の方向が戦前の制度に近づいていますよね。
お金儲けの何が悪い！という主張。強いものが勝つという資本主義。
出てきたものは、格差社会。戦前の社会構造です。
そして、安倍さんは憲法を改正して、戦争ができる国にしようとしています。

レシピを同じにすれば、できるものもおなじ、ってことです。

世界でもっとも（そして唯一）成功した社会主義国と言われた日本。別に私は社会主義者ではありませんが、国家レベルのノーブレスオブリージュ、心が美しいな、と思います。日本が世界に誇れたことだろうと思います。

松下幸之助に「お国から３％の手数料を頂いて商いをさせていただいている」と言わしめた累進課税も、いまは最高税率５０％。

人は（マクロでみると）、差を付けて人間の欲望を刺激すると、人は一生懸命働く、という現実があります。

ひとって、なかなか賢くなれない存在だな、と思います。
そこが人間らしくていいのかもしれません。

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   <title>国民代表訴訟制度の創設を！</title>
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   <published>2007-06-18T04:56:47Z</published>
   <updated>2007-06-18T06:00:58Z</updated>
   
   <summary>国民代表訴訟制度を創設することで、官僚の不適切な業務遂行に歯止めをかけることができる</summary>
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      <name>Admin</name>
      
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   <category term="5" label="国民代表訴訟" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="2" label="年金" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="3" label="株主代表訴訟" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   <category term="4" label="社会保険庁" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
   
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      <![CDATA[社会保険の問題が取りざたされています。
確かに、ちゃんと保険料を納めたのに、受給できないとしたら大変な問題です。
国家的詐欺といってもいいぐらいでしょう。

<quote>
刑法第二百四十六条 　人を欺いて財物を交付させた者は、十年以下の懲役に処する。 
２ 　前項の方法により、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者も、同項と同様とする。 
</quote>

一方、納めてない人も、自分は支払ったと主張することで支給されてしまったら、きちんと納めた人が馬鹿を見ます（もちろん、故意にそう主張する人もいるでしょうが、忘れていてそう主張する人もいるでしょう）。

つまり、完全確実に過去のことを振り返れない現状では
１）納めたのに受給できない
２）納めてないのに受給される
のどちらかの間違いを完全に排除することはできません。
統計学では、これは第１種の過誤、第２種の過誤と呼んでいます。

確かに、１）は大きな問題ですが、２）はどうなのでしょう。
結局、保険財源や税金から支払われることになるので、目に見えて被害を受ける人はいませんが、（きちんと支払った人全員（または国民）が薄く被害を受けるわけです。

１）に該当する人は、大声で不満を主張するでしょうし、マスコミも取り上げやすいので、政治家もそういう人たちを少なくするように動きがちだと思います。

しかし、２）の問題のコストはどうなるのでしょうか？大声を出す人がいなければそれでよいのでしょうか？

]]>
      調査のための費用、納めてない人に支払う費用、これらは、この失策のコストです。そもそも、データの入力のチェックをしなかったというのがすごいことです。入力している末端の人が誰一人このやり方では問題が発生すると気づかないなどということはあり得ません。

そもそも、なぜあなたの年金はいくら納入されていて、６５歳からなら月々いくら支給されますよ、という案内がせめて１年に１回来ないのでしょう？「３０年間払い続けて、申請したら月々何万円か支払います」というような保険商品を保険会社がつくったら、政府は認可するのでしょうか？

刑法に「未必の故意」という概念があります。そういうことが起こっても仕方ない、と思って何もしないでいるのは「故意」と解釈するということです（理解が違っていたら教えてください）。もし、故意と言えないにしても、重過失であることは間違いありません。業務として何かをする場合、重過失は非常に責任が重いのです。

企業の場合で考えてみます。企業の場合、取締役が業務を遂行するにあたって意識するものの一つに、株主代表訴訟があります。不適切な意思決定を行ったり、必要なことを行わないなど取締役の責任を果たさず会社に損害絵を与えて、株主代表訴訟に敗れると、企業（間接的には株主）に与えた損害を、自ら弁済しないとならないのです（あまりに高額な損害を賠償するのは酷だということで上限金額が設定されましたが）。

社会保険庁長官だか、事務次官だかのOBで、マスコミが退職金批判に対して、「民間社長の退職金を見ろ、もっとずっともらっている」と言っていた人がいました。

株主代表訴訟ならぬ、「国民代表訴訟制度」を創設して、官僚にも損失の個人的な補てんを求めるというのはどうでしょうか。国政の結果は数年では出ないことが多いので、時効期間はせめて５０年ぐらいにして、相続された場合も、相続財産を限度に補てんする制度にしていただきたいと思います。

そのリスクがあることが行政官の意識向上に役立つのではないでしょうか。
もちろん、多くの行政官が高い志をもって、一生懸命仕事をしていると思います。
そういった方々にとっては、こういう制度はできてもできなくても一緒ですから、問題はないはずです。
残念ながら、国民（企業でいえば顧客であり株主でもある存在）に対して、申し開きできないことをなさる一部の官僚の意識改革にはとても役立つ制度だと思えます。

それが実現した暁には、ぜひ次は、国会議員や地方公共団体の役職者もその対象に含めていただきたいものです。

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   <title>仕掛け？</title>
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   <published>2007-06-12T07:40:26Z</published>
   <updated>2007-06-12T07:43:46Z</updated>
   
   <summary>ビジネス系のニュース番組などで、「このビジネスを仕掛けたのは・・・」なんてことを...</summary>
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      ビジネス系のニュース番組などで、「このビジネスを仕掛けたのは・・・」なんてことをよく聞きます。
とても、不快です。
「仕掛け」ってことは、そのビジネスのお客さんは、仕掛けに引っ掛かった魚みたいです。

      
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   <title>ヨーロッパのひとつの家vsパックスアメリカーナ</title>
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   <published>2007-05-12T03:31:52Z</published>
   <updated>2007-05-14T01:44:01Z</updated>
   
   <summary>「ヨーロッパはひとつ」というのはヨーロッパ人の感覚（理想）らしい。１９８９年以降...</summary>
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      「ヨーロッパはひとつ」というのはヨーロッパ人の感覚（理想）らしい。１９８９年以降、国はずいぶん分割されたが、一方では統合へ向かった。

一つ一つの国にさまざまな伝統があり、かつそれを重視するヨーロッパにおいて、ルールを統一するというのは想像を絶する作業だろう。

たとえばビールに誇りを持つドイツには、何百年も前にできたビール純粋法なる法律があり、麦芽１００％でないとビールと呼べなかった。そんなこだわりがない国もあり、「ビール」と表示できるものの定義は何であるのかひとつ決めるのにも、国ごとの伝統との葛藤が大変なことだろう。
それは、一つ一つの商品や規制、ルールに対してそういう作業が必要であるので、ちょっと考えただけでも作業量は天文学的だ。

ヨーロッパの人々はそれを成し遂げた。それはすごいことだと思う。戦うのではなく、気が遠くなるような議論の積み重ねにより、大きな夢の実現ために小さな妥協と譲歩を繰り返して乗り越えてきたということだ。
「ヨーロッパのひとつの家」という理念の下に、諦めず話し合い続けるという忍耐力。この社会にはいろいろな人がいろいろな考えで生きている。その一つ一つの価値観を尊重しながら、どうやって共存していくのか。ヨーロッパは長い歴史から学んできたのだろう。

一方、アメリカ的価値観が世界を席巻している。
９１１のテロのとき、「敵か見方か」の二分法で強引に世界を分断した。そこに話し合いの余地はない。武力や経済力を背景に自らの論理を推し進めていく。これもまた統一のひとつのやり方ではある。
確かに、敵か見方かの二分法は感覚的にわかりやすいし、情緒的に強力な訴求力を持つ。
そしてその強引さが、憎悪とテロという反発をさらにエスカレートさせる。
それに対して、徹底的な締め付け。締め付けといって悪ければ管理。・・・・・・。全ての入出国者から指紋と顔写真を撮り、パスポートにも生体情報を入れる。
日本政府が外国人登録に指紋押捺を強要したのが人権問題になったというどころの話ではない。
こんなことが成り立つのは、アメリカが戦時国家だからだろうか。戦争中は何をしても、目的が手段を合法化するからだろうか。

戦争の前に、話し合いを。自分と違う価値観と話し合う寛容さ、共存しようとする勇気、話し合いを続ける忍耐力、それが人類が歴史から学ぶべきものではないかと私は思う。

念のため書くと、個々のアメリカ人を批判するつもりはない。アメリカ人にいくと、寛容で勇気がある人が多い気がする。また、アメリカという国を否定する気もない。アメリカには見習うべきものが沢山あると思う。私の本業でいえば、大師匠はアメリカ人で、ものすごくすごい。アメリカの大学院での教育もすごい。
光と影、がすごい国だと思う。だからこそ、こちらもしっかり見据えて関わる必要があると思うのだ。
      
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   <title>確かなこと</title>
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   <published>2007-04-20T10:22:10Z</published>
   <updated>2007-04-20T11:02:49Z</updated>
   
   <summary>世の中に、確かなこと、ってあるのでしょうか？ 私は、20代ずっとそれを探し続けて...</summary>
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      世の中に、確かなこと、ってあるのでしょうか？
私は、20代ずっとそれを探し続けていたように思います。

いくら考えても、見つからない、わからない、そうした日々の中で悶々としていたように思います。どんな確かそうなことも、根っこを掘り下げていくと、結局確かではないのです。

法律は人が決めたこと、時代によって変わる
お金は人が信じていること、状況によって変わる
価値観、考え方は変わる

よって、これらから派生しているものは全て確かでない。なんだか、デカルトみたいです。


      勢いあまって、哲学科に行ってもっとわけわからなくなりました。
私の考えは全て私の認識です。哲学には認識論という分野があって、人はどう認識をするかということを延々と議論をしてきています。私の目の前にあるPC、これを認識しているがそもそも存在しているかどうかは認識とは別だとか、なぜ机を机と認識できるのかとか、考え出すとわけがわからない議論ばかりです。

その中でも特に、影響を受けたのは、人間の認識の特長が、メタ認知、つまり、自分がどう認識しているかを認識できる、ということです。これを前提にすると、認識が無限後退します。認識している自分を認識している自分がいて、その自分を認識している自分がいる・・・・となっていき、「自分」の認識を確定できない、ということになります。

そうして結局私がたどり着いた結論は、（自分にとって）確かなものは自分の心以外にない、ということでした。

『自分にとって』がキーワードです。客観的に確かなものは、世の中に存在せず、自分の主観に全面的に依拠して初めて、確かなものが見えた、という感じがします。

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   <title>もしも、ディナーに招待できるとしたら・・・</title>
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   <published>2007-04-18T15:55:51Z</published>
   <updated>2007-04-18T16:18:26Z</updated>
   
   <summary>誰を招待しますか？そして何を話したいですか？ 研修のために行ったアメリカで、そん...</summary>
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      誰を招待しますか？そして何を話したいですか？

研修のために行ったアメリカで、そんなゲームをしました。
私が答えたのは、ハベル元チェコ大統領。
      彼は、民主化される前のチェコスロバキアでずっと反政府運動をしていました。おかげで牢獄に出たり入ったり（というよりも、ほとんど牢獄暮らしというほうが適切かもしれません）。

今も残っているかどうかわかりませんが、プラハの旧市街にハベルさんが監禁されていた部屋を含む建物がホテルになっていて、希望すれば泊まれました。私が行ったときは、どなたかが泊まっていたので、ドアの外から見学するだけでしたが。

私が聞きたいのは、反政府活動のモチベーションがどっから来きたのか、です。８９年にベルリンの壁が崩れて、チェコスロバキアにも革命の波が押し寄せ、ビロード革命がなしえたからこそ、彼は自由の身になり、大統領にまでなりましたが、それがなければ彼の人生はほとんど牢獄の中ですごすことになったでしょう。反政府活動をする時に、そのリスクを考えていないはずはありません。

ではなぜ？そんなリスクを犯してまで（実際に投獄されながらも）反政府活動を続けられたのか？
彼は、自分の人生をどう捉えていたのか？

それと、68年の「プラハの春」で命を落とした人たちにとって、彼らの人生はなんだったのか？何故そんなことができたのか？

その2つが、私が本当に人生について考えるきっかけになったことでした。衣食足りて安全で豊かな生活ができる、ということ以上に価値あることの存在を突きつけられた感じがして長らく私は混乱していました。今、私はそういう感覚がわかる気がします。自分もそういう風に生きたいと思いますし、ほんのちょっとはできる気がします。

残念ながら命を落とされた方々に聞くことはできませんから、ぜひともハベルさんに、「自分が生きるってことは、これ以外にないっていう体験だったのですか？」と聞いてみたいと思ったのです。そして、もうちょっとその話を伺ってみたいと思ったのでした。
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   <title>パスポートを更新しました</title>
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   <published>2007-04-16T09:02:16Z</published>
   <updated>2007-04-16T09:21:31Z</updated>
   
   <summary>新しいパスポートは、中にICチップが『埋め込まれ』てていて、顔写真を含むパスポー...</summary>
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      新しいパスポートは、中にICチップが『埋め込まれ』てていて、顔写真を含むパスポートの内容がICチップにも記録されています。
ICチップが入っているページはパスポートの中央で、1ミリ強ぐらいのプラスチックのページです。これを「ICチップがパスポートに埋め込まれている」というのか？というのが、私の最初の感想です。日本の技術力をもってしたら、もうちょっとどうにかならないのかなあと思います。
これがあるためにパスポートがもやはしなやかなノートではなくなってしまいました。決してパスポートの取り扱いが丁寧とはいえない私には、気がかりです。万一、ICチップが破損しても、入出国に支障はないとどこかに書いてありましたが、それならそもそもICチップを入れる必要はないわけです。

      ところで、そもそもこんな事が行われる背景には、段階的に今後生態認証を入れないパスポートではビザなし入国をできなくする、という米国の方針があるのだと思います。

先月、恒例の米国での研修から帰国しました。飛行機に乗るためのルールが年々厳しくなり、航空会社の対応が年々悪くなっていること以外は特段何かを感じたわけではありませんが、冷静に考えると、米国は戦争当事国です。

対イラク戦争開戦の年も渡米しましたが、そのときは渡米するのに緊張感を持つ人が多かったように思います。こんなときにいくの？といわれたこともありました。セキュリティがぴりぴりしていましたが、行ってしまえば、何ということない普通のアメリカでした。
いま、渡米するのにそんな緊張感を持っている人はほとんどいないでしょう。でも、実は何も変わっていません。相変わらず戦争当事国であって、国内は戦争中というイメージはまったくありません。

そういえば、日本もイラクに派兵し、米国と一緒に戦争当事国になったのでした。しかし、日本も平和で、自衛官がイラクに派兵されても日本には誰かが攻めてきたり、次々とテロの標的になるというの名ことはなく平和でした。派兵反対を唱える人はいましたが、実は、戦争当事国になったのだという意識を持つ人もほとんどいませんでした。

そんなことを思い出した、新パスポートでした。
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   <title>生きるのは命がけ</title>
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   <published>2007-03-14T03:37:06Z</published>
   <updated>2007-03-16T09:04:36Z</updated>
   
   <summary>最近、とみにそう思います。 本当に「自分の人生を生きる」というのは、大変なことで...</summary>
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      最近、とみにそう思います。

本当に「自分の人生を生きる」というのは、大変なことです。世の中の規範に盲従したり、どうしたらほめられるかという観点で生き方を決めていれば、起こった結果については、ある意味「仕方ない」と諦めることができます。それは結果を自分以外のものに責任転嫁しています。

「自分の人生を生きよう」と決心すると、判断基準は自分だけです。もちろん、「判断基準は自分」というのは、わがまま勝手に生きるというようなことではありません。他人がどうしているか、多くの人はどうするのかではなくて、自分「は」何を望むのかを自らに問い、それを実現するために自ら考え、行動し、その結果を引き受ける必要があります。

全て自分の責任です。責任というのは、うまくいかなかったときに悪者探しをすることではありません。
誰々のせい、とか状況が悪かった、というようなことは責任転嫁ですし、「自分が悪かった」とうそぶくのも自分に責任を取っていることとは違います。

自分に責任を持つというのは、その結果に対して自分が感じることを、正面から味わう、ということに尽きます。
うまくいかなかったことが悲しければ、１００％悲しむ。
傷ついたのなら、それを体験し、自分のために行動する。
幸せなら、それを体験する。

命がけというのは、自分を見つめてそれが人とは違うということに気づいたときや、自分が望むことを実現しようとしたときの不安は、主観的には「生きるか死ぬか」というほどの強さ・迫力で迫ってくるからです。

自分の人生の責任を引き受けた人だけに、自分の人生を生きたという幸せを体験することができます。
それはデジタルな１、０の世界ではありません。一段、自分の人生を生きるようになったとき、人生が、一段深くなったと感じ、生きていて良かったとより深いところで感じる、そんな一瞬があるように思います。

      
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