死と生 に関する記事一覧

何故、自殺してはいけないのか?

2007年2月18日

という問いに、どう答えますか?
私も、ずっとこれは頭の中にあったのですが、なかなかすっきりしませんでした。
それは、個人の自由?
今まで、私がカウンセラーとして答えてきたのは、
「だめ、理由はわからない」
でした。
昨日、最相葉月さんの『いのち』という本を読んでいて、「自己決定権」という言葉が妙に気になりました。じつは、この言葉は不妊カウンセラーがらみの活動をしているときにも、ある先生が口にされた言葉でもあります。自己決定権に関する思いは稿を改めようと思いますが、ぱっとひらめいたことは。。。

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自分の命は誰のものか

誰でのものでもいいんじゃなーい、と思います(現時点では)。
自分が納得できる「誰か」に仮託しておけばいいかな、って思います。

私自身の感覚では、自分のいのちが誰のものかはよくわかりません。
会社は誰のものか・・・株主のものだって議論がありますが、株主が誰であれ、従業員には(理屈上は)関係なく、自分のキャリアを考えて、自分の仕事をきちんとすればよい、というのと似ているような感じです。

子供が生まれたとき、子供はクリスマスごろにキリスト教の病院で生まれた関係もあり、○○病院の神様から授かった(社会にお返しするまで預かった)と感じました。子供の命も子供のものではないし、ましてや親のものでもない。

そんな感じでしょうか。

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自分のいのちが自分のものでないとしたら・・・

2007年3月 3日

なんで、自分で自分を変えることができるのか?そもそも、変わるなんてことが本当にできるのか?

カウンセリングに対する批判で、哲学的に見て意味のある批判は、カウンセリングで人は変わるのか?ということです。念のため書くと、よくあるカウンセリング批判の、カウンセリングに効果があるのか、というようなものとはまったく異なります。確かにカウンセリングで人は変わったように「見え」ます。そして本人もカウンセリングのあの体験で自分が変わったと感じることも少なくありません。

それでも、本当にそれがカウンセリングの結果なのかは証明のしようがありません。しかし、そこを百歩譲ってそこに因果関係を認めたとしても、まだ話は続きます。

自分が自分を変える(自己決定)などということが本当に可能なのか?全ては定まっていたことなのではないのでしょうか?

たしかに、私は自分で自分のことを決めているように感じています。今日、おやつにセブンイレブンで肉まんを買うのではなくおでんを買ったのは、自分で決めたことのように感じます。しかし、そのことと、本当にそこに選択があったかどうかは別の問題です。

もしかしたら、そのことは決まっていて、私の意識では自分で選んだように感じているだけなのかもしれません。

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生きるのは命がけ

2007年3月14日

最近、とみにそう思います。

本当に「自分の人生を生きる」というのは、大変なことです。世の中の規範に盲従したり、どうしたらほめられるかという観点で生き方を決めていれば、起こった結果については、ある意味「仕方ない」と諦めることができます。それは結果を自分以外のものに責任転嫁しています。

「自分の人生を生きよう」と決心すると、判断基準は自分だけです。もちろん、「判断基準は自分」というのは、わがまま勝手に生きるというようなことではありません。他人がどうしているか、多くの人はどうするのかではなくて、自分「は」何を望むのかを自らに問い、それを実現するために自ら考え、行動し、その結果を引き受ける必要があります。

全て自分の責任です。責任というのは、うまくいかなかったときに悪者探しをすることではありません。
誰々のせい、とか状況が悪かった、というようなことは責任転嫁ですし、「自分が悪かった」とうそぶくのも自分に責任を取っていることとは違います。

自分に責任を持つというのは、その結果に対して自分が感じることを、正面から味わう、ということに尽きます。
うまくいかなかったことが悲しければ、100%悲しむ。
傷ついたのなら、それを体験し、自分のために行動する。
幸せなら、それを体験する。

命がけというのは、自分を見つめてそれが人とは違うということに気づいたときや、自分が望むことを実現しようとしたときの不安は、主観的には「生きるか死ぬか」というほどの強さ・迫力で迫ってくるからです。

自分の人生の責任を引き受けた人だけに、自分の人生を生きたという幸せを体験することができます。
それはデジタルな1、0の世界ではありません。一段、自分の人生を生きるようになったとき、人生が、一段深くなったと感じ、生きていて良かったとより深いところで感じる、そんな一瞬があるように思います。

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自殺しない教育を

2007年9月29日

いじめなどで子どもが自殺すると、ワイドショーを筆頭とするマスコミは、「学校の管理はどうなっていたのか」、などと騒ぎ立てる。「いじめはなかったのか?」「学校側の管理に手落ちはなかったのか」等々。


大変残念なことだが、世の中にいじめは存在する。もちろん、いじめが容認されるわけではないが、現実にいじめがあることを前提としない対策は机上の空論だろう。

わけしりのコメンテーターがいう「命の重みを教える教育をしなければならない」

私はこんなのはナンセンスだと思う。

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