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      <title>哲学する臨床心理士(&amp;MBA)</title>
      <link>http://www.enishi.org/</link>
      <description>「幸せ」とは何かを考えるブログ</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
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         <title>ガソリンが200円を越えたら</title>
         <description>先日テレビを見ていたら、北欧のどこかの国ではガソリンが既に１リットル２２０円ぐらいだとか。
日本も、ずっと９０円ぐらいだったのが、今や１５０円前後。大変な値上がりといえばいえる。
しかし、本当にこれは大問題なのだろうか？</description>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">ニュースを見て考えた</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 10 Jan 2008 14:16:28 +0900</pubDate>
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         <title>管理責任</title>
         <description>世の中全般に「管理責任」を非常に強く求める社会になっているような感じがする。

いまから10年以上前のことだが、私の母校（私立高校）のサイクリング同好会が事実上お取り潰しになった。現役とOBを集めて顧問はいった。「お前たちは生きていても社会の迷惑になるだけで何の価値もないが、死ぬと億単位の価値が生まれるんだ。昔の親は本人がやりたくてやったことだからと（事故死しても）許してくれたが、今の親は許してくれない。億単位の賠償金を払ったら学校が潰れてしまうんだ」と。さびしいことだが、同意せざるを得ないことだった。

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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">世の中のこと</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 29 Sep 2007 20:18:05 +0900</pubDate>
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         <title>動作法</title>
         <description>臨床動作法という心理療法がある。傍目には、整体とあまり区別がつかないのではないかと思うような「心理療法」で、数少ない日本オリジナルの心理療法だ。

やることと言えば、肩をあげたり、肩をそらしたり・・・体をつかう。体操ではないので、元気にやるわけではないし、ストレッチでもない。副作用（？）として肩こりが治ったりする。

今のところ、私は施行できるほどの技量はなく、たんに興味でたまに習っている程度だ。
何が面白いかというと、体と心のつながりを実感できることだ。
というのは、なぜ肩をあげるなどの体の動きが、「心理療法」になるのかという根本的な点が面白い。

動作法の論理は、簡単に言うと、心の動かし方の様式と、体の動かし方の様式は、その人ごとに一致している。だから、体の動かし方の様式を変えれば、心の動かし方の様式も変わる、と。

そんな馬鹿な、と考えるのは「心理療法」というものをあまり知らない人だろう。</description>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">心と体</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 29 Sep 2007 10:11:53 +0900</pubDate>
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         <title>自殺しない教育を</title>
         <description>いじめなどで子どもが自殺すると、ワイドショーを筆頭とするマスコミは、「学校の管理はどうなっていたのか」、などと騒ぎ立てる。「いじめはなかったのか？」「学校側の管理に手落ちはなかったのか」等々。


大変残念なことだが、世の中にいじめは存在する。もちろん、いじめが容認されるわけではないが、現実にいじめがあることを前提としない対策は机上の空論だろう。

わけしりのコメンテーターがいう「命の重みを教える教育をしなければならない」

私はこんなのはナンセンスだと思う。
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">死と生</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 29 Sep 2007 10:11:34 +0900</pubDate>
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         <title>「命の値段」を支える仕組み</title>
         <description>残念ながら、人の命はお金に置き換えることができる。「人の命に値段は付けられない」という建前とは別に、現実には値段がある。それが市場主義が行きつく先だ（市場原理主義）。

身近なところでは、自分の過失で相手が指を失ったらいくら、足一本ならいくら、死んだらいくらと、相場が決まっている。
高い生命保険に加入して自分の「値段」をあげる人もいる。

そしてまた、そうやってつけた自分の値段と引き換えに命を売り渡す人もいる。会社や家族、場合によってはマイホームを守るために、保険金目当てで自殺してしまう人がいる。発展途上国では、お金に困って臓器を売るのも珍しくない。臓器も命もみんな商品だ。それは個人レベルの涙ぐましくも痛ましい事例だが、国家レベルでも同じことはある。

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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">世の中のこと</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 09 Sep 2007 12:15:47 +0900</pubDate>
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         <title>代理によるお為ごかし症候群?</title>
         <description>代理によるミュンヒハウゼン（ミュンセハウゼン）症候群(Munchausen syndrome)という病気がある。

ミュンヒハウゼン症候群とは、自分に周囲の関心を引き寄せるために虚偽の話をしたり、自らの体を傷付けたり、病気を装ったりする症例の事（Wikipedia）である。このミュンヒハウゼン症候群のなかでも、自らの体を傷つけるのではなくて、他人（おもに子どもや親、配偶者など）の体を傷つけることで同じ効果を狙うのが、「代理によるミュンヒハウゼン症候群」と呼ばれている。

こういった事例には私は当たったことはないし、来てほしくもないし、たとえ来てもらっても対応がいだが、似たようなことを感じることはある。「代理によるお為ごかし症候群」である。

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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">生き方</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 06 Sep 2007 11:47:28 +0900</pubDate>
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         <title>医療費削減？</title>
         <description>高齢化に伴って医療費が増大しているのが問題らしい。医療費の話はとてもナイーブな話だ。

お役所の論理は＜本当のところはよくわからないけど＞、現行のルールだと、医療費が増大して健康保険が破綻するから、制度を守るためには、保険料を増やすか医療費の総額を減らしたいが、保険料を増やすのは社会情勢からみて難しそうだから、医療費の総額を減らしたい、ということではないだろうか。

＜だれもが最高の医療を受けられる世の中＞それが理想だろうか？

費用のことを考えなければ理想だろう。
しかし、100%自費診療ならそんなことはありえない。
それが可能だとしたら、実際に医療を受けた時の支払いが生活を脅かさない範囲に削減される必要がある。つまり、公費負担か健康保険かが、なければ実現しない。

でもそのことで、保険料が所得の50%になったらどうだろう（所得の５０％は個人に課される所得税と住民税を合計した最高税率）。確かにみんながそのぐらい払えば、相当の医療ができるだろう。そういう世の中が住みよく誇りを持てる社会だろうか？

医療費の公費負担は「常に」所得の再分配を行うことになる。つまり払ったほどの医療を受けない人と、払った以上の医療を受ける人が出てきて、通常、富裕層は前者になり、低所得者層は後者になる。あまり、税金などを高くすると、富裕層は「こんな税金の高い国に住めるか！」と捨て台詞をはいて税金の低い国に移ってしまい、結局貧乏人ばかりが国に残ってしまい却って税収が減るから、税率の国際競争上あまり税率を高くすることはできない＜と言われている＞。

はたまた、アメリカのように、「健康保険は入りたい人だけどうぞ（それも米国の誇る選択の自由の精神です！）」。というのがいいのだろうか？
米国のような制度の矛盾は、本当に保険が必要な人は、保険に入れず（所得が低いから目先の必要がない保険に回すよりも今日の食べ物に回ってしまう）、保険料をたっぷり払える資力のある人はそもそも保険に入るメリットがない（保険料＞支払いを受ける金額の期待値、であるから保険会社が成り立つわけであるから、自費で医療費を払える人は保険料を払うよりも自費で払ったほうが統計的には有利である）ことだろう。ビル・ゲーツには１等賞金３億円の宝くじを買うメリットもなければ、自動車保険に入るメリットもないということだ。

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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">世の中のこと</category>
        
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">医療費 所得の再分配</category>
        
         <pubDate>Sat, 18 Aug 2007 17:15:19 +0900</pubDate>
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         <title>レシピが同じなら、できるものも同じ</title>
         <description>グッドウィルやフルキャストなどの人材派遣業者が、事実上日雇いのアルバイターたちからシステム登録費とかいう名目で強制的に天引きをしていた、という問題をテレビで見ました。

「規制緩和」・・・小泉さん以来、錦の御旗になった感がある言葉です。たしかに規制緩和によってよくなった面はたくさんあります。

まず何がって、昔は電話とコンピュータをつなぐことすら禁止されていたのです！いまや、電話経由でインターネットに接続する人は少ないと思いますが、ADSLだって、使っているのは電話回線です。携帯は電話＆コンピュータ端末です。

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         <link>http://www.enishi.org/essay/aboutnews/post_5.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">ニュースを見て考えた</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 13 Jul 2007 18:01:13 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>国民代表訴訟制度の創設を！</title>
         <description><![CDATA[社会保険の問題が取りざたされています。
確かに、ちゃんと保険料を納めたのに、受給できないとしたら大変な問題です。
国家的詐欺といってもいいぐらいでしょう。

<quote>
刑法第二百四十六条 　人を欺いて財物を交付させた者は、十年以下の懲役に処する。 
２ 　前項の方法により、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者も、同項と同様とする。 
</quote>

一方、納めてない人も、自分は支払ったと主張することで支給されてしまったら、きちんと納めた人が馬鹿を見ます（もちろん、故意にそう主張する人もいるでしょうが、忘れていてそう主張する人もいるでしょう）。

つまり、完全確実に過去のことを振り返れない現状では
１）納めたのに受給できない
２）納めてないのに受給される
のどちらかの間違いを完全に排除することはできません。
統計学では、これは第１種の過誤、第２種の過誤と呼んでいます。

確かに、１）は大きな問題ですが、２）はどうなのでしょう。
結局、保険財源や税金から支払われることになるので、目に見えて被害を受ける人はいませんが、（きちんと支払った人全員（または国民）が薄く被害を受けるわけです。

１）に該当する人は、大声で不満を主張するでしょうし、マスコミも取り上げやすいので、政治家もそういう人たちを少なくするように動きがちだと思います。

しかし、２）の問題のコストはどうなるのでしょうか？大声を出す人がいなければそれでよいのでしょうか？

]]></description>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">ニュースを見て考えた</category>
        
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">国民代表訴訟</category>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">年金</category>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">株主代表訴訟</category>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">社会保険庁</category>
        
         <pubDate>Mon, 18 Jun 2007 13:56:47 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>仕掛け？</title>
         <description>ビジネス系のニュース番組などで、「このビジネスを仕掛けたのは・・・」なんてことをよく聞きます。
とても、不快です。
「仕掛け」ってことは、そのビジネスのお客さんは、仕掛けに引っ掛かった魚みたいです。
</description>
         <link>http://www.enishi.org/world/post_4.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">世の中のこと</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 12 Jun 2007 16:40:26 +0900</pubDate>
      </item>
      
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         <title>ヨーロッパのひとつの家vsパックスアメリカーナ</title>
         <description>「ヨーロッパはひとつ」というのはヨーロッパ人の感覚（理想）らしい。１９８９年以降、国はずいぶん分割されたが、一方では統合へ向かった。

一つ一つの国にさまざまな伝統があり、かつそれを重視するヨーロッパにおいて、ルールを統一するというのは想像を絶する作業だろう。

たとえばビールに誇りを持つドイツには、何百年も前にできたビール純粋法なる法律があり、麦芽１００％でないとビールと呼べなかった。そんなこだわりがない国もあり、「ビール」と表示できるものの定義は何であるのかひとつ決めるのにも、国ごとの伝統との葛藤が大変なことだろう。
それは、一つ一つの商品や規制、ルールに対してそういう作業が必要であるので、ちょっと考えただけでも作業量は天文学的だ。

ヨーロッパの人々はそれを成し遂げた。それはすごいことだと思う。戦うのではなく、気が遠くなるような議論の積み重ねにより、大きな夢の実現ために小さな妥協と譲歩を繰り返して乗り越えてきたということだ。
「ヨーロッパのひとつの家」という理念の下に、諦めず話し合い続けるという忍耐力。この社会にはいろいろな人がいろいろな考えで生きている。その一つ一つの価値観を尊重しながら、どうやって共存していくのか。ヨーロッパは長い歴史から学んできたのだろう。

一方、アメリカ的価値観が世界を席巻している。
９１１のテロのとき、「敵か見方か」の二分法で強引に世界を分断した。そこに話し合いの余地はない。武力や経済力を背景に自らの論理を推し進めていく。これもまた統一のひとつのやり方ではある。
確かに、敵か見方かの二分法は感覚的にわかりやすいし、情緒的に強力な訴求力を持つ。
そしてその強引さが、憎悪とテロという反発をさらにエスカレートさせる。
それに対して、徹底的な締め付け。締め付けといって悪ければ管理。・・・・・・。全ての入出国者から指紋と顔写真を撮り、パスポートにも生体情報を入れる。
日本政府が外国人登録に指紋押捺を強要したのが人権問題になったというどころの話ではない。
こんなことが成り立つのは、アメリカが戦時国家だからだろうか。戦争中は何をしても、目的が手段を合法化するからだろうか。

戦争の前に、話し合いを。自分と違う価値観と話し合う寛容さ、共存しようとする勇気、話し合いを続ける忍耐力、それが人類が歴史から学ぶべきものではないかと私は思う。

念のため書くと、個々のアメリカ人を批判するつもりはない。アメリカ人にいくと、寛容で勇気がある人が多い気がする。また、アメリカという国を否定する気もない。アメリカには見習うべきものが沢山あると思う。私の本業でいえば、大師匠はアメリカ人で、ものすごくすごい。アメリカの大学院での教育もすごい。
光と影、がすごい国だと思う。だからこそ、こちらもしっかり見据えて関わる必要があると思うのだ。</description>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">世の中のこと</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 12 May 2007 12:31:52 +0900</pubDate>
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         <title>確かなこと</title>
         <description>世の中に、確かなこと、ってあるのでしょうか？
私は、20代ずっとそれを探し続けていたように思います。

いくら考えても、見つからない、わからない、そうした日々の中で悶々としていたように思います。どんな確かそうなことも、根っこを掘り下げていくと、結局確かではないのです。

法律は人が決めたこと、時代によって変わる
お金は人が信じていること、状況によって変わる
価値観、考え方は変わる

よって、これらから派生しているものは全て確かでない。なんだか、デカルトみたいです。

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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">生き方</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 20 Apr 2007 19:22:10 +0900</pubDate>
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         <title>もしも、ディナーに招待できるとしたら・・・</title>
         <description>誰を招待しますか？そして何を話したいですか？

研修のために行ったアメリカで、そんなゲームをしました。
私が答えたのは、ハベル元チェコ大統領。</description>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">生き方</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 19 Apr 2007 00:55:51 +0900</pubDate>
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         <title>パスポートを更新しました</title>
         <description>新しいパスポートは、中にICチップが『埋め込まれ』てていて、顔写真を含むパスポートの内容がICチップにも記録されています。
ICチップが入っているページはパスポートの中央で、1ミリ強ぐらいのプラスチックのページです。これを「ICチップがパスポートに埋め込まれている」というのか？というのが、私の最初の感想です。日本の技術力をもってしたら、もうちょっとどうにかならないのかなあと思います。
これがあるためにパスポートがもやはしなやかなノートではなくなってしまいました。決してパスポートの取り扱いが丁寧とはいえない私には、気がかりです。万一、ICチップが破損しても、入出国に支障はないとどこかに書いてありましたが、それならそもそもICチップを入れる必要はないわけです。
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">世の中のこと</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 16 Apr 2007 18:02:16 +0900</pubDate>
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         <title>生きるのは命がけ</title>
         <description>最近、とみにそう思います。

本当に「自分の人生を生きる」というのは、大変なことです。世の中の規範に盲従したり、どうしたらほめられるかという観点で生き方を決めていれば、起こった結果については、ある意味「仕方ない」と諦めることができます。それは結果を自分以外のものに責任転嫁しています。

「自分の人生を生きよう」と決心すると、判断基準は自分だけです。もちろん、「判断基準は自分」というのは、わがまま勝手に生きるというようなことではありません。他人がどうしているか、多くの人はどうするのかではなくて、自分「は」何を望むのかを自らに問い、それを実現するために自ら考え、行動し、その結果を引き受ける必要があります。

全て自分の責任です。責任というのは、うまくいかなかったときに悪者探しをすることではありません。
誰々のせい、とか状況が悪かった、というようなことは責任転嫁ですし、「自分が悪かった」とうそぶくのも自分に責任を取っていることとは違います。

自分に責任を持つというのは、その結果に対して自分が感じることを、正面から味わう、ということに尽きます。
うまくいかなかったことが悲しければ、１００％悲しむ。
傷ついたのなら、それを体験し、自分のために行動する。
幸せなら、それを体験する。

命がけというのは、自分を見つめてそれが人とは違うということに気づいたときや、自分が望むことを実現しようとしたときの不安は、主観的には「生きるか死ぬか」というほどの強さ・迫力で迫ってくるからです。

自分の人生の責任を引き受けた人だけに、自分の人生を生きたという幸せを体験することができます。
それはデジタルな１、０の世界ではありません。一段、自分の人生を生きるようになったとき、人生が、一段深くなったと感じ、生きていて良かったとより深いところで感じる、そんな一瞬があるように思います。
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         <pubDate>Wed, 14 Mar 2007 12:37:06 +0900</pubDate>
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