「命の値段」を支える仕組み

2007年9月 9日

残念ながら、人の命はお金に置き換えることができる。「人の命に値段は付けられない」という建前とは別に、現実には値段がある。それが市場主義が行きつく先だ(市場原理主義)。

身近なところでは、自分の過失で相手が指を失ったらいくら、足一本ならいくら、死んだらいくらと、相場が決まっている。
高い生命保険に加入して自分の「値段」をあげる人もいる。

そしてまた、そうやってつけた自分の値段と引き換えに命を売り渡す人もいる。会社や家族、場合によってはマイホームを守るために、保険金目当てで自殺してしまう人がいる。発展途上国では、お金に困って臓器を売るのも珍しくない。臓器も命もみんな商品だ。それは個人レベルの涙ぐましくも痛ましい事例だが、国家レベルでも同じことはある。

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「ならずもの国家アメリカ」(Clyde Prestowitz)によれば、アメリカ人が燃費の悪いピックアップトラックから燃費の良い中小型車に乗り換えれば節約できる程度の石油をめぐってイラク戦争が行われたと。もちろんそれだけが理由ではないだろうが、基本的に戦争は国家のエゴと人の命の交換が行われる取引だ。

ところが、直接、お金と命を直接交換する人は少ない。だからわからない。

裁判官は法律に従って死刑判決を出す。紙の上のことだ。それに法律に従っているだけだ。実際に自分の気持ちで、自分に関係ない人を殺すほどの心理的負担はない。
法律を作る人は、社会的な感覚でどの程度のことをしたら死刑とルールを決める。そのとき具体的に死ぬ人を見ているわけではない。だから心理的負担はない。
死刑執行の署名をするのは法務大臣だが、基本的に裁判官が決めたことを執行するだけだし、ペーパーワークだからさほどの心理的負担はないだろう。
死刑執行人は嫌な役だ。でもやはり、法律の枠組みで決められたことをしているだけで、さらに複数の人が同時にスイッチを押すということで実際に誰のボタンが死刑を執行したか分からないようになっている、と聞いたことがある。
やはり心理的負担ができる限り削減されるようにできている。

少しづつ責任を細分しているため、自分が大きな結果を招くことに加担していることに気づかない。というより、気付かない<ふり>が可能な仕組みができている。人を一人殺すという大きなことを、何人かの比較的小さな心理的負担で実行できるようになっている。

別に、死刑制度などを批判したいわけではなく、そうした仕組みによって、一人ひとりは全体を見ないでも、結果的に一人の感覚ではできないことが実行できるようになっている。

戦争もまた同じだ。かりに前述書を鵜呑みにすれば、一人ひとりがガソリンが安いからという理由で大きな車を使うことが、人の命を失う戦争につながってしまう。そういったことは実は世の中では珍しくない。

地球環境の悪化も同じだろう。

どうしたら人は自分の行動の遠い結果を、自分のものとして見ることができるようになるのだろう。

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2007年9月 9日 12:15に投稿されたエントリーのページです。

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